No more Hiroshima! No more War!

ひとりごと…みたいなわたくしごと

いつにも増して強く平和を願う

2022.8.6

広島に生まれて

常に身近に「原爆」を感じて育ちました。

広島を離れて35年

遠くで思う平和への願いの日も今年で最後です

ひろしまに帰ったら

母の体験を記録に残したいと考えています。

2003年(平成15年)から

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が

証言映像の収録に取り組んでいます。

書く事が難しいなら調査員の方が聞き取りに

来てくださるそうです。

母は、あの日、学徒動員で被服廠にいて被害を

免れました。

被服廠とは

広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)もしくは出汐倉庫(でしおそうこ)は、広島県広島市南区出汐にある大日本帝国陸軍被服廠として建設された施設。広島市への原子爆弾投下爆心地から2670メートルの距離にあり、鉄扉が歪むなどしたが倒壊はせず、被害者が殺到して臨時救護所となった

ウィキペディアより

この建物は多分今も残されてると思います。

画像お借りしてます

原爆投下の8時15分

まさにその被服廠の建物に入った瞬間

ピカッと目の前が白くなり、続いてものすごい

ドーンという音と振動を感じたそうです。

原爆のことを知らない当初、人々はそれをピカドンと呼んだのはそのまさに

ピカっと光ってドーンとなったからなんです。

その被服廠の建物が無事だったのは

画像お借りしてます

地図でおわかりでしょうか?

爆心地と被服廠の間に「比治山」という

小高い山があり、

幾分爆風が緩和されたからのようです。

それでも、あと1分入るのが遅かったら

死んでいたかもしれないと母は言います。

人々はいったい今のがなんだったのか、

何が起こったのかわからかったと思いますが

その瞬間のあと、世界は地獄と化していたと。

外をみると瓦礫の山のなか

幽霊のように人々が彷徨い

助けを求めてやってきます。

陸軍の軍需工場だったことで、

情報も比較的早く入って来たこともあり

急遽被害者の収容場所となり

母も無我夢中で看護にあたります。

(ここからは少々エグい内容になります)

犠牲者の人たちが収容されると

まず母はその方々の名前と性別、年齢を聞きます。

なぜならみんな顔がパンパンに腫れあがり

真っ赤で、髪の毛は焼けて総毛立ち

洋服はみな剥がれぼろぼろで

男性か女性か、若いのか老人なのかすらも

わからないのだと。

洋服が垂れ下がってるのかと思えば、

それはズルリと剥けた皮膚

 

原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。

広島市の資料より

摂氏100万度…そんな火球の熱風に晒されるのです。

熱傷はもちろん、その近くにいた人間は瞬時に

溶けて亡くなり、遺体はもちろん

骨すらも出てこない人がたくさんおられます。

熱くて、痛くて

「水をください」と懇願されても

水を飲んだら死ぬと聞かされ

 

「水飲んだら死ぬんよ、我慢してくださいね」と

声をかける間にも次々と亡くなっていく

今思えば、亡くなられるのなら

せめて飲ませてあげたら良かったと後悔してると

言います。

広島市に7つの川が流れていますが

その川に沢山の遺体が浮かんでいたのは

熱くて川に飛び込んだ方がたくさんいたからなのでしょう。

満足な薬や清潔な環境も用意できず、

ちゃんとした処置もできない状況で

傷口にはウジが湧き

正直、放置の状態で

いつのまにか亡くなっている…

ほんとうに地獄のようだった

怖いとか、ひどいとかの感情すらも

何も湧かずただただ必死だったといいます。

私だったら多分卒倒していたわ

いや、発狂かも。

でもほんとにその場に置かれたら

感情や思考は停止するのかもしれません。

脳がメンタルの自己防衛のため

アドレナリンが必要以上にでて

痛みを感じなくなるように。

 

その被服廠で数日看護にあたったあと、

ようやく帰宅許可が出て自宅に帰り

瓦礫となった家の前に

木片に自分の無事をかいて残したそうです

幸いお母さんと妹たちは疎開、父親は出兵

弟は別の場所で学徒動員で無事でした。

全員無事。奇跡ですね。

母からその話を聞いたのは小学生低学年の時、

その時は恐ろしいだけで、その後祖母に

連れて行かれた原爆資料館のマネキン人形が

恐ろしくて入り口から入って

入り口から出してもらった私。

ヘタレですね。

資料館も新しくなっておどろおどろしさは緩和されましたが、

多分今も直視できないほどトラウマになっています。

母は孫たちにも、体験を聞かせていました。

その後資料館にも連れて行きましたが、

我が子達はしっかり直視していましたね。

私は下向いて娘に手を引かれて通り過ぎるという…不甲斐なさ😓

それほど原爆が身近だったのだと

絵空事でも、遠くの時代の話でもなく

現実に起こった事なんだと少女だった私は

ものすごく恐怖に感じていたのだと思います。

いや、この歳になってもまだ行けない😓

体験聞くだけでも恐怖で

今も原爆資料館見れない私なのに、

ウクライナの子供たち…

彼らが見たうけた恐怖、哀しみ、

こころにおとされた影

今後のこらないわけがないと思います。

戦争はダメです。

自分が、自分の子どもたちが大切なら

隣人の子どもたちも大切に思う

その相手の気持ちをくむ

たったそれだけのことで

争いは無くなるはずなのに。

それができる生き物が唯一人間なのに

何故争いは無くならないのか。

 

たったひとりのちっぽけな私ですが、

広島に生まれた私が

平和のためにできるたったひとつのことは

唯一無二の母の体験からみた

戦争の地獄を後世に遺すことだと

そう思った

原爆の日

でした。

ノーモアひろしま

ノーモア戦争

人間だけのものじゃない地球

 

 

今後70年は草木も生えないだろうと言われた広島

とんでもない

我が家の庭にも自然の命が根づいています。

命はたくましいです。

何の罪もないこの命たちこそ

守りたいですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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